名取晴甫先生との思い出



1991年に和光市民オーケストラが常任指揮者に山岡重信先生をお迎えし再スタートした。
翌年、'93年に和光市民文化センターが5月にオープンすることから、
オープン記念にベートーヴェンの「第9」をやろうと、
和光市のほうから'92年に話しがあった。
山岡先生から和光市にはプロの演奏家の名取先生と渡部先生(Cb)のお二人がいるので、
指導者もかねてメンバーに入れてはとの発案の元、
同年2月頃から指導者として一緒に練習をはじめた。

練習に際して、名取先生は非常に温和だが、音楽には厳しく、
ハートのない演奏をしていると「音楽というのは、ただ演奏すればいいのではない。
音符に羽根を付けて飛ばし、それを聴衆に届けるような気持ちで」
とか、ベートーヴェンの「第9」の練習のときは、
「あなたたちは軽く見過ぎている。わたしは、これまでに数え切れないほど『第9』を
演奏してきた。しかし、満足のいく演奏は1回もない。」
とわれわれを叱咤激励してくれた。

’93年5月30日(日)、和光市民文化センターのオープニング記念「第9演奏会」は、
先生たちのお陰で、収容人員1,200名のホールを埋め尽くすほどの聴衆に、
感動を与え大成功に終わった。
演奏会終了後の打ち上げでは満面の笑みをたたえ
出演者の一人一人に称賛のメッセージをおくっていました。

そして、その4日後の6月3日、仙台フィルの演奏会の帰路、雨降りの東北自動車道路で
交通事故に遭遇され、愛用のパーレビ国王が所有していたというチェロと
還暦祝いの赤い愛車ともども天国に召されました。

和光市民オーケストラを語る上で名取先生を語らずしてないと考え、
名取先生の人となりを忍んでみたいと思います。


■名取先生プロフィール■

昭和4年生れ
昭和23年 武蔵野音楽大学卒業
昭和28年 毎日音楽コンクール第二位入賞
リサイタル及びラジオ
テレビにて活躍
パブロカザルス来日の折公開レッスンを受ける
日本現代音楽祭にて間宮芳生作曲無伴奏チェロソナタ初演
及びビクターにてレコーディングFMにて再三放送される
昭和49年 読売日本交響楽団入団
平成2年 定年退団
退団後“宇宿允人の世界”の(フィルハーモニア東京)にて主席チェロを務める
その後メジァーオーケストラにて活動及び市民大学講座、
教会その他の集いにて音楽を語りながらチェロの独奏を行う。
平成5年6月3日 永眠。


下記のお話は、平成5年4月14日、和光市役所会議室にて行われた
和光市教育委員会社会教育課川上さんとの対談からです。
タイトルは「サンアゼリアホール・ベートーヴェン・第9への想いを語る」。
次ページには平成3年に行われた平成市民大学講座の
中で語った「作曲する心 つむぐ心」を掲載します。



見たい項目のボタンを押してください。

「サンアゼリアホール・ベートーヴェン・第9への想いを語る」

サンアゼリアへの想い  
ベートーヴェンとタマネギ
第9シンフォニーへの想い

 「作曲する心 つむぐ心」

弦楽器の話
「弓の話」の話
「チェロ音楽」の話
「民族の音色」の話
「五感と弦」の話
「発声法」の話
つむぐ思い(演奏曲目の解説)

 

◆ サンアゼリアへの想い ◆

 初めてサンアゼリアホールに入った時、しっくりした内装と響きの良さに、「こんなにいいホールを市民が使えるようになったのは、たいへん喜ばしいことだ」と強く思いました。楽器はホールという器に乗って初めて、その楽器の最も良い状態の音になります。このホールで生の音の良さを体感した子供たちの中から、大人になって、例えば音楽家や良いスピーカーを作る人材が出てきたりというように、目に見えないところで相乗効果が出てくるのではないでしょうか。
 新しくできたこのホールを、まちの宝、われわれの誇りとして立派なホールに育てるのは、市民一人ひとりの想いにあると思います。
 私がヨーロッパの演奏旅行で街を散歩していた時、普段着姿のどっしりした“おかみさん”に「あなたは昨日のコンサートのメンバーか?」と聞かれたことがありました。昨日の客席には貴婦人ばかりだったはずなので驚かされました。こういうおかみさんが着飾ってきてホールを盛り上げ、演奏を楽しんでいるのです。
 誰だって生活に追われています。しかし、そんな中でもたまには紳士や貴婦人になって、音楽や演劇をすてきなホールで楽しむ。このようにしてそのホールを、みんなが愛する、憩いの場にするというように、市民が育てることが大切なのです。
 今日は、これから私たちが第九を演奏いたします。演奏する人たちは、それぞれ仕事を持つ中でなんとか時間をさきながら、山岡先生や私たちトレーナーのいうことをよく開いてくださり練習を積んできました。決して、閑人が暇をもてあまして1年間練習してきたのではありません。その成果を市民のみなさんに披露できることを、ほんとうに塘しく思っています。
 また、和光市民だけでなく、志木市・新座市をはじめ大勢の方たちに合唱やオーケストラのお手伝をいただきながら、このコンサートができることを心から感謝しております。

Back

 



◆ ベートーヴェンとタマネギ ◆

 ベートーヴェンは、1770年に生まれ、1827年12月26日に57歳で亡くなりました。彼は、6歳頃からピアノの才能を発揮したので父親が、モーツァルトのように神童として人前へ連れ出して弾かせようとしました。しかし、ベートーヴェンは神童というよりも、ゆっくりその才能を伸ばしていくタイプだったので、うまくいかなかったようです。
 しかし彼は、15、16歳頃になると宮廷でオルガニスト米ビオラ奏者として、カルテットのような室内楽で活躍するようになり、作曲よりも演奏活動を中心に才能を発揮しました。
 これはあまり知られてないのですが、その頃の彼にはおもしろいエピソードがあります。
1782年、フランス軍がドイツに侵入し始めると、彼が非常に尊放し慕っていたチェロ奏者ロンベルグと一緒に難を逃れるため、コック見習いとしてライン川下りの船に乗り込みました。もしかしたらその船に乗り合わせた人たちの中には、ベートーヴェンの刻んだ玉ねぎを食べたり、彼が洗った皿で食事をした人がいたかも知れませんね。後に「楽聖」と呼ばれたベートーヴェンのそんな姿をみなさんは想像できますか。
 ベートーヴェンは、当時大変活躍していたチェロのテクニック開拓者、ロンベルグを非常に尊放し慕っていましたが、彼からはいつも軽んじられていました。しかしどんなに軽んじられても、ベートーヴェンは彼を尊敬し続けたのです。ベートーヴェンが作曲したものの中にチェロコンツェルトがないわけは、尊敬するロンベルグに捧げるチェロコンツェルトを作曲したいと申し出た時、ロンベルグから「自分の作曲したものが絶賛を博しているのに、何でおまえなんかの書いた、弾きにくいだけのおもしろくない曲を弾くんだ?」というようなことを言われたからだそうです。結局、彼の作曲したチェ
ロのための曲は、ソナタが5曲、バリエーションが3曲、トリプルコンツェルト(バイオリン、チェロ、ピアノ)が1曲でした。
 ベートーヴェンは、若い頃に思らった天然痘や慢性的な肝硬変のために、最盛期の30代においても、身体的に苦しんだはずです。天然痘が原因がどうかはわかりませんが、32歳の頃に耳を悪くしています。25歳から32歳の間に、人前で演奏したのはボランティアも含め7、8回でした。あばたの残った顔で人前に出るのを気にしていたのかもしれませんね。
しかし、若い頃チェルニーと出合ったベートーヴェンは、彼から画期的なピアノのテクニックを得て24、25歳ですでに周囲が驚嘆するような即興演奏をしてウィーンを中心に名声を博していました。
 べ−トーヴェンは幼い頃から、よく一人でもの思いにふけっていました。晩年になっても、弟たちと旅に出かけた時など、人と詰をせず一人で考え事をしていたので、ベートヴェンとあまり交流のない世俗的な人々は彼を変人と見ていたようです。けれど、ベートヴェンはいつも自分だけの世界で、曲の構想を考えていたのではないでしょうか。モーツァルトのように曲を一晩で書きあげるのとは対照的に、時間をかけ、長いことひきこもって作曲する、そんな彼を尊放する人は少なかったようです。しかしベートヴェンは人々を愛し、尊放し、どんなに軽んじられても慕い続けました。
ベートヴェンの臨終は、弟の嫁と、故郷の親友の息子ゲルハルト・フォン・ブロイニング(13歳)にみとられていました。ゲルハルトの父は、ベートヴェンが亡くなる2日前から彼の墓捜しに出かけており、最期をみとることができませんでした。
ベートヴェンの最期の瞬間、突然天を裂くような雷鳴が鳴り響き、閃光が足り、大雪が降りました。それまでずっと静かに目を閉じていたベートヴェンはその時大きく目を見開き、ゲルハルトに手をさしのべ、手を天に向かって祈るように力いっばい伸ばしました。やがてその手が彼の胸の上に落ちました。この不思議な光景のうちにベートヴェンはその生涯を閉じたのです。

Back



◆ 第九シンフォニーへの想い ◆

最後に第九シンフォニーについてですが、この曲は、一般には47歳から着手し、54歳のときに完成したとされています。ベートヴェンはシヤルロツテ・フォン・シーラーの詩にずっとこだわり続けていたので、着手する4年くらい前にも、彼の詩をなんとか音符に表現しようとスケッチした痕跡が見つかっているのです。1824年2月ごろ脱稿した第九は6年かかったといわれていますが、実際には10年くらいかかっていると思われます。
初演は1824年5月7日、ウィーンのケントナートア劇場で行われ、聴衆の絶賛を浴びました。しかし、新開での批評は厳しいものでした。これは私の考えですが、第九が当時の音楽としてはあまりにもスケールが大きすぎて、何と批評していいのかわからなかったというのが真実ではないかと思っています。
 ベートヴェンが自ら指揮をしかンドン公演では演奏後、熱狂的な喝采がわきおこったのですが、ベートヴェンは聴衆の方を向きませんでした。彼の友人が客の方へ向きを変えてあげて初めて喝采がわかりました。この時すでに彼の耳はまったく聞こえなくなっていたのです。第九に感動した聴衆の大柏手を開けなかったのは、作曲者としてどんなに残念だったでしょう。ちなみに、日本初演は1924(大正13)年、東京音楽学校でおこなわれました。
ベートヴーエンの音楽は簡単にアナリーゼ(分析)できるものではありません。今夜は理屈抜きでベートヴェンを十分味わってください。

 back


Home Next


inserted by FC2 system